4. 時間の存在もまた集合論的(=相対的で)である。

1) 時間とは何か
この章は抜粋(概要)です。
突き詰めれば、時間とは回転運動又は周期運動の周期を数えることにほかなりません。ただその間覚が一定であるかは他の数え(かぞえ)との対比が一致するかどうかの比較論です。周期の定時性は他の周期との比較による経験則です。
その回転数と、別の回転数との集合論的な比較(時間の存在も相対的とはこのことをいいっています)が時間です。時間がたつとは回転数のかぞえが増えることです。通常は時間がたっても何も変化しません。数えるという行為により測定者のエントロピーは必ず増加することを除きますが。これを経時とよびましょう。状態が変化するのは次章で述べるように特殊な場合のみです


時間ついてはかなり長い間悩みました。25年くらい悩み、ああでもない、こうでもないと考え、5年くらい前に今の考えに行き着きました。

2) 加齢と経時
この章は抜粋(概要)です。
ただ単に過ぐる時間を「腹水盆に帰らず」にするのは誰あらん地上の事情です。地上だけではありません。太陽だって、銀河だってそうです。これを加齢と呼びましょう。
それは物質の密度=空間のエネルギー密度に密接に関係しています。密度が希薄でないところでは加齢します。つまり進化するのです。

相対(比較)時間(経数時間=経時)と絶対時間(加齢時間=加齢)
経時が宇宙を支配し、加齢は局所で起こる。

数を数えるという認識のない動物には絶対時間(加齢時間)の認識のみ存在します。
私たちは時間の存在のない、あるいは存在の薄い現象を知っている。
いつまでも変わらぬ、景色や、ほとんどの物体、岩石、その他。
何万年経とうと変わらぬもの。そしてエネルギーだけが意味を持つ量子力学の世界。そこでは時間に密接に結びついた速さはもはや何の意味も持ちません。(と教わった様な気がする)

一方で激しく変化しているものもある。刻々と移り変わる、日の出、日の入り、社会の現象。新幹線の運行や、その他。そこでは速さが非常に重要な意味を持ちます。
正味の時間が現れるこの現象と、時間の経過は全く意味をなさない前記の現象とどちらが普遍的なのでしょうか。
もとい、そういう意味ではなく、加齢は地球や、太陽、銀河系等の極狭い範囲での現象であると考えられないでしょうか。エネルギー密度に密接に関係した時間が加齢です。そこには歴史があり、意識もあり、現在、過去、未来が存在します。

しかしほとんどの領域を支配する広大な宇宙の空間では加齢しません。経時のみが存在します。経時の認識は高等動物だけができるものです。私たちは宇宙が何年経ったといいますが、そんなことは宇宙にとってはどうだっていいことです。宇宙はいつも同じ局面を見せています−簡単に言えばすべての状態の銀河のセットが揃っている−から何の意味も持ちません。宇宙には「ひいきのひき倒し」しかないのですから。いつかまた述べたいと思います。揺らいで、まためぐり合うのですから。

ちょっと横道にそれました。
宇宙全体では経時が支配します。時間、しばしば加齢の意味でよく使われます。この時間特に加齢の認識が強い、は普遍的に存在しません。加齢は局所でしか起こり得ないのですから。
残念ながら、タイムマシンはできません。普遍的な時間は存在しないのですから。

でも未来へは誰でも行くことができます。夜寝て明日の朝目を覚ませばよいのです。意識の上ではあっという間に約6−8時間の未来にあなたを連れていってくれます。寝ないでずっと起き続けていられる高等動物はありませんが、アミーバや、細菌はもし睡眠すれば、寿命が延びるとすれば私たちは紛れもなく、毎日数時間のタイムマシンに乗っているのではないでしょうか。寝ている間に体は復帰しますが、それ以上の寿命の延びはあるでしょう。
種子はすごい時間をタイムトラベルするではありませんか。真空中でも生き続けられるんでしょうか。でも意識のある高等動物はタイムトラベルできません。不思議ですね。

過去は私たちの記憶の中にしか有りません。ちょっと御幣があるかも知れませんが、記録の中にも存在しません。記録しても記録がどこにあるかが、誰かの頭の中にあるか、誰かが探し出して初めて過去のあったことが分かります。ただただ現象が存在するのみです。それが今、現在です。
変化のある事象の刹那(せつな)の連続、それが時間なのです。

地球が一周するから一日経つのです。時間が経って一日過ぎて地球が一周するのではないのです。数えるから時間が経つという大前提がまずあります。その上で齢を重ねて年を取るから時間が経ちます。
私達は、地球がほぼ同じ周期で自転していることを知っています。セシウム(?原子時計はセシウムだったと思う)の原子の振動と、地球の自転ではセシウムのほうがより正確な周期の定時性があると決めただけです。真理でもなんでもありません。決め事にしか過ぎません。そうすることにより多くのもののつじつまが合うのです。
多分生活上は(そして多分これが最も重要)遠い未来でも一日が24時間です。自転がだんだん遅くなり、セシウムの振動とずれて24時間と1時間18分36秒ということにはならないでしょう。1秒の定義を変えることのほうが遥かに合理的だと思います。

後書き
時間についてはもっとうまく説明しようとしましたができてませんね。
ここから下は言いたいことをまた言い直しています。説明が下手ですいません。

勿論、周期運動はどこでも見かけることができますし、記憶もあるし、その記憶の中の運動などの類推から周期運動の数えが増えたときにどんな動きをしているか想像することができます。それは社会活動についても同じです。過去の経済状態(=記憶)の学習からこのような局面では周期運動の数えが増えれば金利は上昇する(未来)ということがわかります。時間とはこのようなものです。その本質は周期運動の数えです。2次局面的には加齢です。
マクロの量子力学の世界で、速さが意味をなさなくなり、エネルギーのみが変化をもたらす。(解釈間違っているかな。でもそういう面有るでしょう)また極大の世界で速さが意味をなさない現象もあるのではないかという気がします。つまり時間が存在しない。こちらの世界が宇宙の本質であるような気がします。時間の存在する地上は特殊な世界です。ちょうどすべての物体が地上にへばりついているように。宇宙ではすべての物体はふわふわ浮いています。

物理学でいうような絶対的な存在ではないという感じがします。
相対性理論の中で時間が遅れるとか、進むとかいいますが、同じであるべき、ある系にある周期運動の数えと、他の系にある周期運動の数えとの対比が狂ってくるという意味になります。でもどちらが基準。どちらでもありません。運動の特異点は存在しないのですから。強いていうなら私達(自分)のいる系の運動に属する周期運動が基準です。

私達は時間の中にいるのではありません。
私達は存在(=意識の存在、唯心論的過ぎますかね)以外のなにものでも有りません。
ただただ存在しているのみです。
私達の記憶に時間という名前をつけているだけに過ぎません。こいう考えに沿って観ると時間は存在しない。ただ意識と、それが感知するもの(物とか感性)の存在のみが存在するだけということになりませんか。
そして運動や現象を類推し、記憶から類推し未来と名前をつけます。

ただし、感性はエントロピーとともに存在しますから、感性が時間の呪縛から解き放たれることは有りません。そういう意味で、時間は絶対存在です。そして今の世界ではこの考えによって成り立っています。つまり時間は絶対存在であると。

しかしながらそれはエネルギー密度の高い局所でしか起こりません。加齢するという意味においても感性が存在する=高等生物が存在すると言う意味においても、それはエネルギー密度が高くないと起こらないでしょう。そして、感性が捕らえたものが、唯物論的な側面を持ち、感性を離れて存在するとしましょう。(あるいは想像できる)するとその感性の無い世界では時間の無い世界が広がります。多分こちらが宇宙の本質の姿ではないかと思います。

変化しながら在ること。それが時間。加齢。


3) 光速だって変わりませんか
この章は抜粋(概要)です。
水中でさえ遅くなる光なんだもの。媒体の運動に拠って速度が変わってもらわねば。
例えば水流の中では速さはどうなるの。あるいは発生源の運動によっても変わってもらいたい。

4. 集合を包含する宇宙には年齢など存在しない。
この章は抜粋(概要)です。
ただ単に過ぐる時間を「腹水盆に帰らず」にするのは、誰あらん地上の事情です。地上だけではありません。太陽だって、銀河だってそうです。
でも宇宙は違います。
その事情とは中視系(これをミディクロと呼びたい)にあります。