U時間に関する考察 相対(比較)時間(経数時間=経時)と絶対時間(加齢時間=加齢) 1)時間の感性 時間は視覚に訴える、空間や、視覚、触覚に訴える物質に比べ、より形而上学的(概念的)な存在です。時間が感覚に訴えるとしたら最も端的なものは空腹感や、昼夜の移り変わりでしょう。そこから私たちは時間を作りました。昼夜の存在や、老いて死ぬこと、空腹感は圧倒的な感性で私たちに訴えます。 系 まずは思考の対象を明確にする必要があると思う。通常、系とは思考の対象である。思考のの範囲が変わる、つまり系が拡大、縮小するときは議論を別に進めなければならない。 2)単一事象 事象が存在するためにはエネルギーの変遷がなければいけない。ここでいう変遷とはエネルギーの種類が変わることにとどまらず、系の中でのエネルギーの偏りも含める。またエネルギーとはE=mc2で変換される物質(質量)を包含する。系の中での物質の移動=運動も系に対して位置を変えることからエネルギーの変遷という捕らえ方をする。エネルギーとは互いに干渉しあう(交渉を持つ)「なにもの」かである。質量をも含めたエネルギーは互いに干渉しあって変遷していく。この変遷が事象である。 エネルギーの変遷があるためには系の中にエネルギーが存在していなければならない。それは目に見える物質である必要はない。光もそうであるし、均一でない場、場の波や、場の揺らぎもエネルギーとして存在する。そうして初めて事象が生まれる。 系の範囲が固定されていれば、単一の物質が系の中を移動するだけで事象が生まれるような気がするが、そうではないと思う。まず系の範囲が固定されるためには固定するための指標がなければならない。それは一番単純には特定の物質である。前述の通り、物質の宇宙に対する運動は存在しない。もちろん系を宇宙に対して固定することもできない。系を明確にするためには中心物質を決めて、または想定して系をそれとリンクさせることである。太陽系も、銀河系もそうではないか。地球は圧倒的な支配場ゆえに通常地球系とは言わない。 さて系が決まるとその系の中を物質が通過(移動)し事象が生まれる。中心物質に対して別の物質が近づき再び遠ざかる。この会合を単一事象と呼ぼう。 3)時間の発生 事象がなければ、つまり物質もなければ、エネルギーもなければ、変化もなければ、何もなければ時間は存在しない。また単一事象だけでも時間は存在しない。時間が発生するためには2つの事象が干渉しなくてもかまわないが、存在しなければならないような気がする。 さきに順序について話を進めたい。位置関係、空間的な距離においても、順序は存在する。A地点からB地点を経てC地点に到達する。B地点がC地点よりA地点に近いと仮定する。ここにはまぎれもなく位置の近い順序としてA地点、B地点、C地点という順序が存在する。また事象の順序としてもA地点出発、B地点到達、C地点到達と言う順序が存在する。この事象の順序が時間である。事象の順序なしには時間は存在しないのではないかと思う。 それは事象がない、何もないところでは時間が存在しないことが正しいかという問いになる。私たちの意識は紛れもなく事象である。意識は複雑な反応、事象の集まりの賜物である?。(多分、唯物論的過ぎ?)しかし今の議論では意識が事象であることを超越して、はずして考える必要がある。 宇宙の、自然の背景時間が存在するのだろうか。何もなくても時間が経つのだろうか。何もない、意識もない、死んだ世界では時間は存在するのか。やはりここでは事象なしでは時間が存在しないと言う考え方に組したい。これは単に、何もなければ何もないという議論をしているだけかもしれない。とまれ宇宙には背景時間は存在しないと考えてよいのではないか。2つの事象があり、その順序に根ざした間覚(感覚では有りません。意識の中の間(ま)の覚えです。空間という語の間と、時間という語の間に共通な感性です)が有り時間が発生する。 この時間は箱の中に並べられた団子と同じで、箱という空間が、時間という感性で、事象の容器になる。その順序が後先という時間特有の現在過去未来を形作る。空間の距離はいくらでも後戻りできるが、事象の順序は復元しないと考えられている。(しかし大きなスケールでは、地上の見方に反して事象もまた後戻りすることを展開してゆく。また小さなスケールでも事象は可逆的になると考えられる。) ここではエネルギーなしでは事象が存在せず、事象がなければ時間が存在しないことを主張した。つまり何もない宇宙空間では時間は存在しない。しかし何もない宇宙空間は存在しない。銀河星雲間の宇宙空間でさえ場や、光がゆらいでいる。そこには事象があり、必ず事象の順序が存在する。 前述した間覚は私の造語で、前述したように意識の中の間(ま)の覚えです。空間という語の間と、時間という語の間に共通な感性です。さてこの感性が厄介な代物で事象の権化です。事象が複雑に絡まりあって、食物連鎖の頂点に人間があるように、事象の頂点に感性があるのではないかという気がします。エントロピーの発散の最たるものかもしれません。こうして時間なしでは感性は存在しません。その感性は時間を絶対的なものとして捉えるのは無理からぬことと考えます。それでも時間は純自然科学的には存在しない?かな。 |