4)集合論的運動論 運動、回転(公転)は多勢に無勢です。すんなりすっきりする方に物事を捉えるのがルールです。そう考えることにより、調和が取れ、考えやすくなります。しかしながら実際の運動(宇宙に対する運動=絶対運動)とは何らかかわりを持ちません。相変わらず観測者が属する系が静止しています。そのように振舞うということです。運動の見え方だけが重要なのです。正味の運動=宇宙に対する運動はありません。 プトレマイオス(だと思った)のあの工夫した天動説。太陽が地球の周りを回り、その太陽の周りを他の惑星が回ると考えてもおかしいこと、見える現象の差はないような気がします。どこを基準にとっても同じ現象が観測されます。 しかし、系を拡大して考えると、多数決の原理により、みんなが調和するほうが考えやすくていいのです。だから地球の周りを太陽が回り、その太陽の周りを他の惑星が回るより、太陽の周りを地球も含めて回るほうが、真理なのです。 どなたか、プトレマイオスの天動説と、現在科学の地動説の決定的な違いは何なのか教えていただけませんか。 確かに、地球と太陽の引力は、月と地球の引力より大きい。そして質量の大きい太陽がこの差をもたらしている。どちらが大きいかは明白である。(そうですね。どうして太陽とのペアのほうが大きいということが分かるかという意味において間違いないかな?。)太陽との場合のほうが引力が大きいから、太陽を中心に取ろう。それが物事のルールの正しい決め方である。それ以上でもそれ以下でもないではないか。 閑話休題その2 遠い星 遠い星の距離を視差で計測します。地球が太陽の周りをまわるのか、太陽が地球の周りを回るのか決めるものは無いといいましたが、遠くの星を地球の公転による視差によって星との距離を図るという方法がありました。6ヶ月ずれた季節、例えば冬と、夏で同じ星の見る角度が変わります。それは地球の公転の太陽に対する軌道上の互いに一番遠くに離れた2点で同じ位置にある星を見ると角度が変わるということです。だから地球は太陽の周りを回っているというのです。 しかしそうではありません。運動に関する限り、宇宙に対しては太陽も、地球も等価です。ではなぜ視差が現れるのか。視差は地球が太陽の周りを回っている証では有りません。太陽が遠い星と同じ運動系にいる証でしか有りません。遠い星と太陽はほぼ同じ運動をしていることを示しているに過ぎません。いや逆に太陽とその星がほぼ同じ運動系にあるという仮定の上で距離を測っているに過ぎないのではないでしょうか。だからその運動系と外れた運動系にある地球では視差が起こります。 ![]() θ1とθ2が季節によってかわる。太陽と遠い星は同じ運動系にあり、地球が太陽の周りを回ると、この視差が現れる。しかし太陽と遠い星が同じ運動系にあり、太陽が地球の周りを回っていてもまったく同じように視差は起こる。 加速度運動は絶対運動ではないのではということを述べました。そうなると宇宙に対して銀河がどう動いているのか決めるものは何も有りません。その銀河の中心を回っている太陽が宇宙に対してどんな運動しているのか知るすべはありません。その太陽の周りを回る地球の宇宙に対する動きもおなじです。そのときの考察の対象、つまり系の調和の取れるほうに、考えやすいように決めればよいだけです。つまり地動説は約束事なのだということをいいたいのです。 しかし自転はちがいます。決定的な自転と公転の差は自転は強い力で結びついた物体で、一体となって回転しているのに対し、公転は対象の星々がまったく自由に自由運動しているという点です。自転については次の次の章で詳しく触れます。 |