前書き、要約
1)宇宙モデルと感性

空間と、揺らぎは超存在である。
存在するものは空間と、エネルギーの揺らぎだけである。揺らぐエネルギーがはいった無限の容れ物(いれもの)だけが存在すると言ってもよいかもしれない。エネルギーの揺らぎが物質と時間を作る。

エントロピーが増大して最後は緩慢な均質な宇宙になるというモデルや、背景輻射、赤方偏移がインフレーション宇宙の証拠だとする見方ではなく、宇宙は過去も、今も、未来もいたるところでダイナミックに変化しつづけ、トータルとしては何ら変わらない姿を見せているというモデルの方が人の感性に合っているような気がする。大きさも無限であり、もちろんインフレーションもありえないという考え方の方がよいと思う。ダイナミック定常宇宙である。ビッグバン宇宙よりもっと均質で、均衡が取れ、調和した、時間や、広さを超越した姿を浮かび上がらせたい。
そういうモデルを構築するための理由を探そう。いささか情緒的ではあるが、その理由付けが私の主張である。
何かモデルを作り、現象の理由付けをつけると、どんなモデルでもそれなりの理由付けができてしまうと考えるのは、言いすぎだろうか。どのモデルが気に入るかいらないかということは、どのモデルが一番無理なく説明できるかと言うことと同じくらい重要だと思う。

進化の話で、牙が長い方が生存競争に勝てるので牙はだんだん長くなる。そうして牙が丸まって自分のあごにあたるほどに成っても、同じ方向に進化しつづけやがて種が滅んでしまうという話を聞いたような気がする。
何か現象を見つけ、その理由を考えるとその理由が最初にありきの世界になってしまう。別の現象もその理由で説明しようとしてしまっていないだろうか。裸の王様の世界と通じるものがある。
お咎めを受けるようなきつい言い方かもしれないが、中世に魔女がいると信じられ、魔女狩りが行われたヨーロッパの世界は他人事ではない。ビッグバンはそのような世界に陥っていないだろうか。頑固かもしれないが宇宙が一点から始まって、大爆発を起こしたという話は私には考えにくい。現象の別の理由付けを探すような方向に動こうじゃないか。

やはり私は感性を大事にしたい。感性が納得する理由付けをしよう
宇宙には果ても、始まりも、終わりもなく、したがって時間にも始まりも終わりもないと言うのは妙に納得できる。気に入った人がいたら数字と、数学記号をつけて欲しい。

2)物質と空間
物質とは空間の特異な領域である。
また総ての物質の存在は集合論的(=相対的で)である。

物質とは、物があるのではなく、場の状態による、空間の性質である。物質もまた空間であり、同じ状態の空間の領域との間で排他領域を形作る空間の領域である。本質的には物質を形作る空間も、通常の空間も空間としては何ら変りはないし、エネルギーを通して相互に変遷する。その空間(場)の特殊な状態(=物質)も、別の空間(場)の特殊な状態(=物質)の存在が有って始めて分かる、相互依存している。
物質の存在を知るためには、光なり、他の物質を使い、その他の物質や、光が影響を受けるから物質の存在がわかる。
このように考えてくると、物質は重力場と電磁場の特異な状態の空間の領域と考えられないだろうか。
他の物質とのかかわり(交渉)によってのみしか存在が知れないという意味において、物質は集合論的で相対的である。
またこの物質という特異な領域はエネルギーが揺らぎによってトラップされて発生すると考えている。その際に背景輻射のエネルギーを掠め(かすめ)取る。同じように星から届く光もエネルギーを掠め取られる。そうして星からの光は遠方にあるものほどエネルギーを失い、赤い方へずれる。

3)支配場
場の発生源が近傍を支配する。
場の発生源の運動との相対運動が場の影響を決定する。
地上では大地に対する速さが絶対速度となる。新幹線も、飛行機も、ロケットでさえ大地に対する速さをあたかも絶対速度のように一方的に通告する。地球の重力場が圧倒してすべてを地上の動きを中心にして捕らえるように振舞う。
太陽でさえ、東から昇り、西に沈むように見せる。
ブラウン管の中で電子銃から発射された電子は、その電子銃とともに運動する電磁石との相対運動によって振る舞いを決定する。だから私達は新幹線の中でもテレビを見ることができる。電子の軌跡は大地に対する運動ではなく、磁場の発生源である電磁石との相対運動によって決定される。
このように考えると、場の発生源に対する相対運動でその場の発生源に対する振る舞いが決定される。つまり場の発生源の運動が近傍を支配する。
また場は発生源の運動によって引きずり回されのではないか。
すると電磁場に関してはどうだろう。はたして電磁波(光)は電磁場の発生源の運動の影響を受けるだろうか。

4)運動の透過性
宇宙に対する運動は存在しない。慣性系だけでなく、加速度系にある運動も含めてすべての運動は静止しているのと同じ意味しかもたない。つまり運動は透過的である。運動していようが、いまいが特別な意味は無く、同じ意味しかもたなく透過的である。このことを宇宙には運動の特異点はないと呼びたい。
加速度運動が地上で絶対運動のように振舞うのは、力のかかり方による。力のかかり方には2種類有る。また反作用としての慣性は常に存在する。その慣性は作用反作用の結果として生じる質量の本質である。また力を加え、作用する側は、反作用する側と本質的に区別するものは何も無い。
力のかかり方の1種類は強い力と私が勝手に呼ぶ、近接力であり、もうひとつは弱い力とこれまた私が勝手に呼ぶ、遠隔力である。
弱い力の作用を及ぼされている物体の運動が、第三者によって観測されずに知ることはできない。また第三者が、自身が宇宙に対してどんな運動をしているかを知るすべはない。第三者も別の第三者によって観測されなければならないからだ。すべての運動的存在は宇宙に対して全く同じ意味しかもたない。分るのは力が相互に作用している、作用反作用の両物体の相対運動だけである。
また、宇宙に対する位置もない。すべての位置が等価である。どんなに運動しても宇宙での位置は変わらない。つまり物質が宇宙に対して位置を変えたり、運動することはない。宇宙に対しては方向だけが意味を持つ。運動や、位置は相対的な他のものに対するものだけが意味を持つ。運動や、位置の他のものとの比較の集合的、相対的な意味付けが重要だ。
しかしコマ運動は非常に特殊であるが宇宙に対する唯一の運動である。それは物質の発生と深く結びついている。結合して一体となった領域の運動である。

はたして宇宙が一点から大爆発を起こすとは、宇宙に位置の特異点があり、また運動もその点を基準にした運動があるという、運動の特異点があるように思えてならない。それが赤方偏移であった。

5)時間の考察
宇宙は加齢(歳を取ること)しない。減齢する領域、事象があるから。したがって宇宙には年齢はない。
時間にはふたつの側面がある。ひとつは周期運動の周期を数えることによって経過がわかる周数時間であり、もうひとつはエントロピーの増大によって経過がわかる加齢時間である。
私たちが使う時間は、加齢時間の印象が強く、その加齢時間は宇宙にあまねく行き届いている時間ではない。地上や、太陽系や、銀河系などのエネルギー=物質の密度の高いところに発生する事象のひとつである。

極論をすれば、時間とは人間が作り出したものと言う考えに行き着くかもしれない。こういう考え方が唯心視観を形作っていくのではないだろうか。逆におぼろげに唯心視観があり、そのおぼろげさがこの主張の全体のトーンを作っているのかもしれない。

もちろん定常宇宙であるから、内面では激しく変化するものの全体では何も変わらない。年をとらない。そこからはビッグバンにより宇宙が始まり、今宇宙の年齢は何歳であるという発想は起こりえようが無い。

空間と、揺らぎは超存在である。
存在するものは空間と、エネルギーの揺らぎだけである。エネルギーが揺らぐ容器だけが存在すると言ってもよいかもしれない。エネルギーの揺らぎが物質と時間を作る。
時間と、空間は明らかに質の違う感性である。直感的な視覚に訴える、空間の感性に対し、時間は心の中だけで感じるものに、周期運動の数えを当てたものである。さらに揺らぎが時間の感性に実質的な意味を与える。

事象とはエネルギー変遷であり、時間を形作る。
時間は事象によって形成され、意識によって時間となる。特にエネルギー密度が高い地上や、太陽系や、銀河、銀河群などではエントロピーが増加して歳をとり再び前と同じ状態に戻れない世界を形作る。私たちの世界はこうして現在過去未来に置かれている


6)揺らぎと、確率
ルーレットは0から36の数字の出目を当てるゲームである。ヨーロッパのリゾートではカジノが認められていて、いたるところで行うことができる。出目は37(0から36は37個の数値)だから、100回も振ればたいていの数値は出てくる。ところが面白いことに300回くらい振ってもまったく出てこない値がある。その反面もういやになるほど何度も出てくる数字がある。そうして時間をかけて出てくる数字と、出てこない数字が入れ替わってゆく。
ロトや、ナンバーズも同じである。宝くじにもそういう傾向がある。出てくる数字は何回でも、連続さえして出てくる。でもそれがずーと続くわけではない。何回くらい同じ数字が出てくるかということは母数(ルーレットの場合は37)に関係があるように思う。
この現象は自然界のどんな局面でも、どんなスケールでも現れる。これが自然現象のフラクタル性を形作るのではないかと思っている。自然現象のフラクタル性とは、たとえば銀河と、台風の形がそっくりなこと、太陽系の構造が、原子の構造と似ていることなど様々ある。

7)次元
線の世界から、面、体積の世界へと1次元、2次元、3次元と言われている。線の軌跡が面を作り、面の軌跡が体積を作る。そしてそれを延長して4次元、多次元世界へと空想が膨らむ。
しかし私たちの世界はたまたま直交座標系が3軸ある、体積の領域からなる世界に過ぎない。直交座標系がたまたま3つある世界で、3という数字がついているに過ぎない。その数字を2にしたり、4とか5にしたり世界があるということではない。2次元の世界も実存在としてはありえない。3次元は私たちのいる世界というだけでそれ以上でも、それ以下でもない。もちろん4次元方向の曲がりなど存在しないし、観測もできない。観測できないから存在しないといった方がよいだろう。私たちの世界はなんていったって3次元の世界なのだから。すべての存在は体積の一面でしかない。

8)まとめ
大きな見方をすれば、真理とはどこかに確定したものがあって、それを見つけるものではなく、時代時代の考え方、感性に合致し、その時代に有益と考えられるものがその時代の真理になる。感性が納得し、時代に有益なものを真理という。どの時代の真理もはじめに感性ありきである。それは科学の世界でも同じではないだろうか。

私の話は最初に結論ありきなのだろうか。
よくわからないけれど、今まで学習したことや読んだことで自分なりの感性を作る。
例えば、無重力状態の宇宙空間で空中に漂っている(ただよっている)1Kgの鉄球と、10Kgの鉄球を同じ力で押す。どちらが先に進むだろうか。
答えは軽いほうである。無重力下でも、地上で軽いほうが速く動く。同じ論法で、無重力下でも宇宙船の船体は人が押しても速さを変えられるとか、とめられるとかどうなるものでもない。重さが無くても質量があるのだから。それは人にロケットエンジンをつけても同じである。船を動かすくらいのロケットエンジンは船についていなければ人がつぶれてしまう。(スプートニクなら動くかもね。それほど小さい。確か?)
科学に触れるものはこういう感性を磨こう。地上ではすべてのものが落下することを当たり前と思うように、宇宙でのできごとを感じられるようになろう。磨いた感性を信じて従おう。

最後にもう一度、
宇宙は局所的(大銀河群でも局所です)にダイナミックに活動し、そうして全体ではいつも変わらない姿を見せている。最初に結論ありきかもしれないが、こういうモデル−
ダイナミック定常宇宙−がすっきりする。