1章、2章、3章はまだ書いていません。目次から昔書いた内容のものにリンクしています。そちらをご覧ください。

4.周数時間と、加齢時間の考え方(宇宙には背景時間は無い)
1)時間を感じると言うこと、時間の感性
2)単一事象
3)時間の発生
4)変わるもの、変わらないもの
5)周数時間=経時(相対時間)
6)加齢時間=加齢(絶対時間)
7)定義するから時間が存在する
8)時間の橋渡し
9)間の感性、加齢するから時間を感じる
10)宇宙は加齢しない
11)現在、過去と未来
12)事象元と物質元
13)まとめ
14)空間と、揺らぎは超存在である。
15)絶対時間−時間の架け橋

4. 周数時間と、加齢時間の考え方(宇宙には背景時間は無い)
1)時間を感じると言うこと、時間の感性
私達は時間の中に生きている。日の出とともに朝になり、日の入りとともに夜になる。一日ごとに季節が移ろい、一年ごとに人は歳を取る。人は起きて行動し、朝が昼になり、昼は夜となり一日が終える。この間に移り変わっていく朝、昼、晩の太陽の位置等の周期に関連した動きや、それより長いスパンで、少しづつ成長し、やがて衰えていくからだは時間を感じさせるに充分である。
このように時間の感性は厳然と存在する。朝と昼、空腹感と空腹感の間(ま、武道の間合いの間ですね)の覚え、間覚(これはかんかくと読む、私の造語)として、時間という間(ま)の感性がある。いやこの空腹感と、空腹感の間(ま)の覚えを時間という。間の覚えにはもう一つ視覚に訴える距離がある。こちらは空間と言う。
時間は視覚に訴える、空間や、視覚、触覚に訴える物質に比べ、より形而上学的(概念的)な存在である。時間が感覚に訴えるとしたら最も端的なものは空腹感や、昼夜の移り変わりだろう。そこから私たちは時間を作った。昼夜の存在や、老いて死ぬこと、空腹感は圧倒的な存在感で時間を私たちに訴える。

事象
それでは何が時間を形作っているか見てみよう。上の例でいえば、昼夜の移り変わり、空腹感と空腹感の間の間性である。昼夜の移り変わりや、お腹がすくことなど、起こる事柄を事象と言う。これはとどのつまり時間が経って起こる現象のことである。事象と時間は密接に結びついている。時間が経たなければ事象は起こらないし、事象が起こらなければ時間が経ったことが解らない。私達の意識もまた事象ではないかと考えている。
化学反応は量子力学的な原子、電子の振る舞いの結果として起こり、その化学反応は生化学反応の基となる。細かなより基本事象が複雑に絡み合って事象の連鎖を作っていく。生化学反応の帰結として口が動き、食物をかむ。酵素の働きによって食物が分解され、からだの中で消化、吸収され、筋肉を動かす。脳が働き思考を成す。



まずは思考の対象を明確にする必要があると思う。通常、系とは思考の対象である。思考の範囲が変わる、つまり系が拡大、縮小するときは議論を別に進めなければならない。

2)単一事象
それでは事象に付いてもう少し詳しく考えてみよう。事象とは何か。事象とはとどのつまりエネルギー変遷ではないかと考えている。ここでいうエネルギーとはエネルギーのトラップである=エネルギーが空間の領域に凝縮された(と私が勝手に考えている)物質、E=mc2で変換される質量をも含める。その物質をも含めたエネルギーの変遷とは、その形を変えることは勿論、形を変えないで分布、配置を変えること、系の中でのエネルギーの偏りも含める。エネルギーの種類が化学エネルギーから熱エネルギーに変わったりすることにとどまらず、単純に2つの物質が会合することも事象である。系の中での物質の移動=運動も系に対して位置を変えエネルギー分布が変わることからエネルギーの変遷という捕らえ方をする。
事象が存在するためにはエネルギーの変遷がなければいけない。エネルギーとは互いに干渉しあう(交渉を持つ)「なにものか=対象」である。質量をも含めたエネルギーは互いに干渉しあって変遷していく。この変遷が事象である。
エネルギーの変遷があるためには系の中にエネルギーが存在していなければならない。それは目に見える物質である必要はない。光もそうであるし、均一でない場、場の波や、場の揺らぎもエネルギーとして存在する。そうして初めて事象が生まれる。
系の範囲が固定されていれば、単一の物質が系の中を移動するだけで事象が生まれるような気がするが、そうではないと思う。まず系の範囲が固定されるためには固定するための指標がなければならない。それは一番単純には特定の物質である。前述の通り(3節で述べる予定)、物質の宇宙に対する運動は存在しない。もちろん系を宇宙に対して固定することもできない。系を明確にするためには中心物質を決めて、または想定して系をそれとリンクさせることである。太陽系も、銀河系もそうではないか。地球は圧倒的な支配場ゆえに通常地球系とは言わない。
さて系が決まるとその系の中を物質が通過(移動)し事象が生まれる。中心物質に対して別の物質が近づき再び遠ざかる。この会合を単一事象と呼ぼう。

3)時間の発生
事象がなければ、つまり物質もなければ、エネルギーもなければ、変化もなければ、何もなければ時間は存在しない。また単一事象だけでも時間は存在しない。時間が発生するためには2つの事象が干渉しなくてもかまわないが、存在しなければならないような気がする。
さきに順序について話を進めたい。位置関係、空間的な距離においても、順序は存在する。A地点からB地点を経てC地点に到達する。B地点がC地点よりA地点に近いと仮定する。ここにはまぎれもなく位置の近い順序としてA地点、B地点、C地点という順序が存在する。また事象の順序としてもA地点出発、B地点到達、C地点到達と言う順序が存在する。この事象の順序が時間である。事象の順序なしには時間は存在しないのではないかと思う。
それは事象がない、何もないところでは時間が存在しないことが正しいかという問いになる。私たちの意識は紛れもなく事象である。意識は複雑な反応、事象の集まりの賜物である?。(多分、唯物論的過ぎ?)しかし今の議論では意識が事象であることを超越して、はずして考える必要がある。
宇宙の、自然の背景時間が存在するのだろうか。何もなくても時間が経つのだろうか。何もない、意識もない、死んだ世界では時間は存在するのか。やはりここでは事象なしでは時間が存在しないと言う考え方に組したい。これは単に、何もなければ何もないという議論をしているだけかもしれない。とまれ宇宙には背景時間は存在しないと考えてよいのではないか。2つの事象があり、その順序に根ざした間覚(感覚では有りません。意識の中の間(ま)の覚えです。空間という語の間と、時間という語の間に共通な感性です)が有り時間が発生する。
この時間は箱の中に並べられた団子と同じで、箱という空間が、時間という感性で、事象の容器になる。その順序が後先という時間特有の現在過去未来を形作る。空間の距離はいくらでも後戻りできるが、事象の順序は復元しないと考えられている。(しかし大きなスケールでは、地上の見方に反して事象もまた後戻りすることを展開してゆく。また小さなスケールでも事象は可逆的になると考えられる。)
ここではエネルギーなしでは事象が存在せず、事象がなければ時間が存在しないことを主張した。つまり何もない宇宙空間では時間は存在しない。しかし何もない宇宙空間は存在しない。銀河星雲間の宇宙空間でさえ場や、光がゆらいでいる。そこには事象があり、必ず事象の順序が存在する。

☆間覚
前述した間覚は私の造語で、前述したように意識の中の間(ま)の覚えです。空間という語の間と、時間という語の間に共通な感性です。さてこの感性が厄介な代物で事象の権化です。事象が複雑に絡まりあって、食物連鎖の頂点に人間があるように、事象の頂点に感性があるのではないかという気がします。エントロピーの発散の最たるものかもしれません。こうして時間なしでは感性は存在しません。その感性は時間を絶対的なものとして捉えるのは無理からぬことと考えます。それでも時間は純自然科学的には存在しない?かな。

4)変わるもの変わらないもの
日本の考古学を塗り替える画期的な発見ともてはやされた、多くの遺跡の出土物が捏造品であった記憶はまだ最近のことである。矢じりを構成する石が放射能測定でも時間を特定できないから捏造が発見できないと言う面もあったそうである。考えてみれば私達の身の回りには太古の昔から全く変わらない姿を見せているものがあると思えば、全く原形をとどめないものまで幅広く存在する。
例えば、この矢じりが全く没交渉の、宇宙線(宇宙船では有りません。宇宙を漂うすべての電磁波)も行きかわない、他の物質と衝突する恐れもない宇宙の虚空に漂っているとする。さて1億年経っても原形をとどめているだろうか。私はこの石(矢じりは大理石だった?)を構成する原子の安定度、半減期がある自己崩壊する原子が含まれているかについて知らない。仮にすべての原子が安定であるとすれば、何が変わるだろう。この矢じりにとって時間はどんな意味をなすのだろうか。
原子が安定で、宇宙線も行き交わない、衝突の恐れも無いとはこの矢じりが外界と全く没交渉であることを物語っている。つまりエネルギー変遷しない環境にある。この矢じりは何年経とうが時間の経過はわからない。この矢じりだけを見る限り時間の経過が知れることは無い。時間が存在しない。勿論観察者は歳を取ってしまうが。
観察者が歳を取ることはどう考えたらよいか考えていない。はっきりいえることは観察とは必ず動物の意識が行うものであり、観察者自身がエネルギーを発散させ、観察者の時間を進めてしまうと言うことだ。
やじりの例は極端かもしれないが、石は地上でも変わりにくいものの代表である。また風景は主に岩石でできていて、ゆっくりと姿を変え、石の造作はいつまでも姿を変えることなく地上に残る。石に限らず一般に物は変化がなければ時間の経過はわからない。

このように宇宙の中や、地上には何年経とうと変わらないと考えられる領域がある。それは時間の存在のない、影響を受けにくい、あるいは全く受けない存在である。

一方で激しく変化しているものもある。刻々と移り変わる、太陽の位置や、動物の動き、天候や、社会の様々な現象、乗り物や、取り上げたらきりがない。そこでは時間や、速さが非常に重要な意味を持つ。
こちらはたとえば太陽の位置など、それだけを見れば時間の経過がわかる。動きのあるもの、変化するものは時間がたつから変化し、逆にその変化を時間の基準にすることもある。

時間の経過が影響しない現象と時間の経過が重要な意味を持つ現象が私たちの周りに存在する。

5)週数時間=経時(相対時間)
しかし時間の経過が影響しない、変化のない世界でも時間は経過する。何も変化のない世界でどのようにして時間の経過がわかるのか。それは変化のない世界でも存在しているであろう周期運動−コマ運動など(不思議なことに周期運動は変化の一面と考えなくてもよい面をもっているような気がする)を数えることによって時間の経過がわかる。そこに周期運動がなかったらどうするかなどということは考えなくてよい。時計=自己周期運動カウンター、を持っていけばよい。
こうしてどんなに変化のない世界でも、周期運動の周期を数えることにより、時間の経過を計ることができる。でも何も変化していない今の空間の領域と、一億年前の空間の領域なんてどんな意味があるのという気もするが。
ここで測る時間を週数時間(経時)と呼びたい。この世界では周期運動の周期を数えることによってのみ時間が経過する。そしてこの時間は数えることをしなければ存在しない。何も変化しないのだから時間の経過は数えることなしには分からない。極端な話をすれば時間は存在しない。ただし数えることだから、絶対的に未来に向かってしか時間が経たない。数えれば必ず大きな数になるし、どんなに大きな数もその上の数を数えることができる。もちろんどこかでまた一に戻すことも可能である。また時間の経過の対象物に時間が経ったということが何も残らないのに、周期の数を数えることだけで時間が経過するので相対時間ということになる。対象物によってではなく周りの計数によってのみ時間が経過するという意味で相対時間と呼びたい。

6)加齢時間=加齢(絶対時間)
次に時間が重要な意味を持つ変化する世界について考えよう。ここでは周期運動の周期を数えることなしに時間が経過する。腹水盆に帰らず、−不可逆変化−(元に戻らない現象)の連続だ。
それでも時間の基準は周期運動の周期を数えることである。そしてこの世界の時間、不可逆変化をし、エントロピーが増大することを加齢と呼ぼう。それはエントロピーが増大することを前提に存在する時間だ。そしてこのエントロピーの増大、つまり加齢は地球や、太陽、銀河系等の極狭い範囲での現象であると考えられないだろうか。物質の質量をもエネルギーに換算した、エネルギー密度に密接に関係した−エネルギー密度が高いゆえにしか起こりえない負荷逆変化と関連した時間が加齢である。
エネルギー密度が高いからエントロピーが増加すると考えたい。背景輻射より高いエネルギーは背景輻射のエネルギーレベルに溶け込もうとして、エネルギーを発散させる。逆に揺らぎは背景輻射のエネルギーの分布を偏らせ物質へとエネルギーを固めてしまう。
また別の観点で、エネルギー密度のほかに、考察の対象の大きさでも変わらないだろうか。宇宙規模のマクロ(巨視系)では、すべてを包含して加齢しない。エネルギー密度が高くエントロピーが増大する、銀河、太陽、地球などの世界と、エントロピーが減少する広大な宇宙空間のせめぎあいの世界だ。こちらは詳しくは「1.物質、空間同質の考え」または「かくあれかしの」ドップラー効果と赤方偏移を見ていただきたい。またミクロ(微視系)の量子力学の世界でも加齢は存在しないような気がする。
地上や、太陽系、銀河系クラスの中視系では加齢の現象が顕著だと思う。エントロピーが増大し、そこには歴史があり、意識もあり、現在、過去、未来が存在する。そして私たちは加齢に慣らされている。経時とともに加齢は必ず起こると経験的に捕らえている。そしてそれが宇宙のすべての領域で普遍的に起こると考えすぎていないだろうか。
しかし宇宙ではまず数えありきで時間が存在する。エネルギー密度の高い物質が集中している、惑星や、恒星系、銀河系、銀河群系、大銀河群系ではエネルギー密度が高いゆえ、エントロピーが増大する。
そしてこれは想像であるが、宇宙の容積の大部分を占める物質以外の領域では、背景輻射のエネルギーが揺らぎにより、物質へと析出しエントロピーが減少する。この両者により宇宙全体のエントロピーの均衡が保たれる。

経時が宇宙を支配し、加齢は局所で起こる。

閑話休題 エントロピー
物理学のエネルギー保存の第2法則に基づいて、エントロピーという考え方があります。いろいろな説明ができると思いますが、熱いお湯と、冷たい水をいったん混ぜてしまうと、エネルギーを使わずに元の熱いお湯と、冷たい水に戻すことはできないということです。熱い水と、冷たい水に分かれた状態をエントロピーが低いといい、混ざって同じ中間の温度になった状態をエントロピーが高いといいます。エネルギーが熱となって周囲に撒き散らされることをエントロピーが高くなると考えていいと思います。
秩序だって分けられたものはエントロピーが低く、無秩序で交じり合ってしまったものはエントロピーが高いといいます。そしてエントロピーが高くなったものを再びもとの状態に戻すためには、エネルギーを使わなければなりません。そしてその際に使うより大きなエネルギーはつまるところ熱エネルギーとなって周囲に撒き散らされます。これは元に戻ったお湯と水から取り出せる以上のエネルギーを失ったことを意味します。すべてのエネルギーは最終的には熱エネルギーとなって均質な温度になるというのがエントロピーの法則です。

7)定義するから時間が存在する。
1秒の定義のように、セシウム原子の周期を数え時間の単位を定義する。時間は全く周期運動の数を数えることにより進む。しかしそこにあるのは生成流転の自然の営みである。その自然の営みはエネルギー密度が高いところでは不可逆変化となり過去未来の感性を生じさせる。その過去未来性、その生成流転の自然の営みから時間を形作る。
周期運動の周期の数えが増えるに従って、空腹感が発生し、昼と夜が繰り返し、齢を重ねる。昼と夜の繰り返しもまた、周期運動の数えである。
そして齢を重ねる部分ははっきりと加齢時間であり、不可逆反応である。

当たり前のことだが、化学反応の速度は濃度によって変わり、生化学変化の速さもそれを変えうる要因が存在する。地球は偶然に24時間で1周し、365日で太陽の周りを回る。
この周期が異常に長かったり、短かったりする天体に高等生命は誕生するだろうか。
われわれの6倍長い周期で自転する惑星で約6倍長生きする高等生命体があっても不思議ではないし、6分の1の周期で自転する惑星で6分の一しか生きられない高等生命体が有っても不思議ではない。これくらいの倍率では化学変化や、生化学変化が高等生命体を許容すると思うがどうだろうか。それとも地上で化学変化や、生化学変化が起きるくらいの濃度ひいては近傍のエネルギー濃度=時間の進み具合でないと、高等生命体は許容されないのだろうか。生命の寿命は多分惑星の自転とは関連付けは薄いのだろうが、ここでは話を簡単にするため比例するものとした。
この倍率が許容されるとしよう。彼らの時間の進み方はどんなだろう。
多分6分の一の生命体の時計はわれわれの6倍速く進む時計を持っている。そこでは非常にせわしなく、時間が経つように感じられるかもしれないが、おそらく彼らはわれわれと同じように、のんびりと、またせわしなく生活しているはずである。それが彼ら生まれた環境なのだから。
セシウムの周期は変わらないから、地上での10秒は彼らにとってもまた同じ時間の間隔である。しかしてその時間に対して彼らが感じるものはわれわれよりは長い時間ではないだろうか。彼らは地上のわれわれより速いスピードでその間に様々な仕事をするかな。それはわれわれにとっての1分の間隔に近くないだろうか。少なくともわれわれが感じる10秒よりはゆったりとした感覚にならないだろうか。
もともと、地球の6倍の速さで自転する惑星は自滅してしまうのであろうか。それともそのような速さで、ある大きさでは安定して存在できるのだろうか。そして大気を保つことができるのであろうか。
余談では有るが、生物の体内時計の1日の周期は24時間よりかなり短いと記憶している。それは生命が生まれた、太古の地球が今よりも高速で回転していたときの名残だそうである。それで夜仕事をする人もいる。こちらは別の理由か。

8)時間の橋渡し
私は時間には2種類有ると述べている。ひとつは加齢時間であり、エントロピーが増大し現在、過去、未来が存在し歳を取って行く時間と、もうひとつは週数時間、周期運動の周期を数え、その数えが増大することにより、経っていく時間の2種類である。
加齢時間は質量をもエネルギーに換算してエネルギーに加えた場合のエネルギー密度の高いところ=銀河群、銀河系、太陽系、地上その他もろもろなど=で発現し、エネルギー密度が低いほうへ、つまりエントロピーの高いほうへとエネルギーが拡散する過程で発生する時間で、エネルギー拡散に密接に結びついている。その過程は負荷逆変化の連続である。(つまり銀河には歳がある。)
周数時間はエネルギー密度がどうであろうと、すなわちエントロピーが増大しようが、減少しまいがそんなことには無関係に刻まれる時間で、周期運動の周期の数が基準になる。この周期はじつは様々な周期との整合性から生まれた単位で、私達が一定であると決めているのに相違ない。
それではこの両者(加齢時間、周数時間)の関係は?。
経時(周数時間)はセシウムの原子の周期によって厳密に定義されている。全く周期運動の周期を数え、その数えた値が一定に達することに1秒経っていく。こうして経時の単位は厳密に決められた。
それでは加齢は?、定義は無い。
「1Gの重力下で、ある濃度のA液と、B液を仕切りを隔てた、ある形状を決められた容器に入れて、仕切りをどのくらいかの速度Z(この場合の速度は経時での速度)でひきぬいて、A液と、B液が反応してC液が50%に形成されるまでを1加齢時分(1分のこと)とする。」
とか、
「10のマイナス10乗ヘクトパスカルの気圧の空気中に99.999%の純度の球状の1Kgの鉄を一様に100度Cになるように加熱し、1Gの重力下で球体の表面の平均温度が50度Cになるまでを1加齢時分とする。」
としよう。ここでは例えばこんな風に定義すると言うことで、実際の時間はどのくらいかわからない。化学変化よりも温度拡散の方がよいと思うがどうだろう。ひょっとすると、化学加齢時間、温度加齢時間で違うことは無いだろうなあ。
さて地上では1経時時分(1分のこと)=1加齢時分(1分のこと)であることは明白かな、多分そう決めたのであるからそうなる。これがわれわれの地球から遠望の宇宙の果てでも成り立つだろうか。この経時と、加齢の橋渡しはやはり決め事になってしまう、あるいは経験則からの約束事ではないかと言う気がする。遠望では成り立たないのかもしれない。そうなるともう、宇宙には時間などへったくりも無いと言うことになる。宇宙には時間は存在しないのである。私はこちらの姿のほうが宇宙の本質ではないかと思えてならない。でも多分、周期をつかさどるものと、熱の拡散、化学変化をつかさどるものの大元はいっしょでこんなことは起こらないのかな。

あるいは、人の感性が時間を作っていると言う見方もある。勿論経時は厳然としてある。セシウム原子による1秒の定義がそのよい例である。しかし数えるのは人である。周期の数えは数える人間のエントロピーが増大することを除けば、何も不可逆反応を呼び起こさない。数えるから時間が経つのであって数えなければ時間が経ったことは解らない。現実にもそういう風景や、いつまでたっても変わらない存在は多々見受けられる。
経時は数えなければ解らない。でも、おなかが減るのは数えなくてもわかるという厳然とした加齢時間が有る。エントロピーは増大するから観測すれば時間が経ったことが解る。だが、この経時と、加齢の橋渡しをする定義が無い。定理もない。宇宙にあまねく、普遍的に成り立つと納得させる橋渡しがあるのだろうか。

9)間の感性、加齢するから時間を感じる
時間の感性は厳然と存在する。朝と昼、空腹感と空腹感の間の覚え、間覚として、時間という間(ま)の感性がある。いやこの空腹感と、空腹感の間(ま)の覚えを時間という。それと、宇宙に普遍的な時間が存在することは同じことだろうか。物理量としての周数時間も存在する。それは数えることによってその数えが増えることによって定量的な物理量となる。
しかし、加齢時間との整合性が無い。また整合性があったとしてもそれは経験則でしかない。厳密に定義された物理量だろうか。その点では周期の等時性と言う経験則でも同じだろうか。それは他の周期運動との比較による集合論的物理量となる。つまり回りの周期を見て整合性が取れるから等時性だと結論付ける。周期の等時性もほかの周期と比較するしかないのだから。どれが絶対かは解らない。
ひょっとするとこのように考えると、すべての物理量は周囲との比較による、集合論的整合量なのかもしれない。
言いたいことは、時間(ここでは計数時間)は絶対的に宇宙をあまねく進化、進めているものではなく、周りとの比較によって整合性が保たれるように決められた経験則の物理量であるということである。宇宙には背景時間は存在しないのではないか。
また現在、過去、未来を形作る加齢時間にいたっては、エネルギー密度よって簡単に変わる、時間の一面でしかない。宇宙の背景時間とは到底なり得ない。
エネルギー密度が高いからエネルギーが拡散し、エントロピーが増大する。エントロピーが増大すると、加齢する。加齢するから生成消滅する。生成(誕生)消滅(死)は特殊な事象の呼び名である。生成消滅するから歳がある。生まれてから何年と言う年齢ができる。銀河には誕生があり、おそらく死もあるから、銀河の年齢はある。宇宙は?。エネルギーが宇宙全体で拡散していくばかりなら年齢もあろう。しかし、ここは仮定の話であるが、希薄な銀河星間、又は大銀河群間空間で、私の言うようにエネルギーが物質へと析出するならばそこで輪廻のようにすべての事象が一回りする。エントロピーは広大な星間、銀河間、または銀河群間空間で減少する。全く持って宇宙の開闢以来と言う考え方はそこからは生まれてくるものではない。宇宙全体には時間という考え方は適用されない。銀河群(大銀河群?)が、時間が適用される最大の大きさである。
エネルギー遷移がある=事象が存在するから、時間がある。加齢時間はその事象が一方向にエントロピーの高いほうに進むから存在する。加齢時間はまた、エネルギー密度が高い領域で発生する事象(の見方?)である。事象の一つとして加齢時間が有る。それは単純な2つの物体が近づき会合し再び遠ざかる一番単純な、会合事象と同じように事象の一つにすぎない。
たんなる存在を、エネルギー密度の高い星の住人が、現在、過去、未来に変える。地上ではすべての物体が落下するのと同じように、時間がすぎるのは地上の、そして近傍の星々の特殊事情である。一部を見るから時間が経つ。全体を見れば時間は経たない。
揺らぎの気まぐれによって、エネルギーが偏り、物質が生まれ、人がいて、そこで時間が経ってゆく。
周数時間で数えが増えてもエントロピーが増加しなければ歳を取らない。全く何も変化しない環境の中で時間を感じるだろうか。自分のおなかも減らない。歳も取らない。死なないし生まれもしない。増えない。ただ毎日、日が昇り、日が暮れる。すべては周期運動ですべてもとに戻る世界で時間を感じるだろうか。エントロピーが増えない世界はそういう世界ではないだろうか。エントロピーの増加なしで時間が経ったことがわかるのだろうか。回りはすべて繰り返しの周期運動ばかりである。エントロピーが増えなければ時間は存在しないと考えてよいのではないか。
生成流転の営みの中でエントロピーが増加する。近傍の存在そのものがよりエントロピーの高い存在に変わる。それで現在、過去、未来が生まれる。
エントロピーと書いたが木が成長するとエントロピーは増えるのだろうか。ねずみが増えるとエントロピーは増えるのだろうか。エントロピーとはちょっと違った概念が必要かもしれない。
やっぱり、成長するとき、成長してエントロピーが減るより多くのエネルギーが費やされエントロピーは増えるのだろうなあ。

太陽系の周りや、銀河の周り、銀河群の周りを調べてみよう。背景輻射は一様でないはずだ。当然物質ができたところの周囲は、時間的スパンは有るがエネルギーが希薄になっているはずだ。濃い塩水が、過溶解状態の塩水を作って塩が析出するとき、時間のスパンは有るが、一時的にせよ(マイクロセック、ナノセック、ピコセックとか)析出した塩の周りの塩分濃度は低くならないだろうか。
こういう、地上の実験室で起きることと、宇宙のスケールが圧倒的に違う空間で起こることが同じだと言うことがすばらしいと思うのだけどどうだろう。これは揺らぎがどんな局面でも、どんなスケールでも同じように働いていることによるものだと思う。

10)宇宙は加齢しない
しかしほとんどの領域を支配する広大な宇宙の空間では加齢しない。経時のみが存在する。(経時の認識はエネルギー密度の高いところだけに存在する高等動物だけができるものではないか。)私たちは宇宙が生まれて何年経ったといいうが、宇宙はいつも同じ局面を見せている。簡単に言えばすべての状態の銀河のセットが揃っている。生まれたばかりの銀河から、まさに終焉を迎えている銀河まで観察されていないだろうか。距離の差こそあれ、今まさにすべての銀河のセットがそろっていることは、宇宙はいつも同じ状態であることの証ではないだろうか。宇宙全体では経時が支配する。時間、しばしば加齢の意味でよく使われる。この時間、特に加齢の認識が強い、は普遍的に宇宙には、存在しない。局所でしか起こり得ないのだから。
宇宙では全体で均衡している揺らぎ、−均衡しているから加齢ではない−が銀河を形作る。

閑話休題その3
タイムマシンはできません。普遍的な時間は存在しないのですから。もっと端的には過去は私達の記憶の中にしか存在しません。
でも未来へは誰でも行くことができます。夜寝て明日の朝目を覚ませばよいのです。意識の上ではあっという間に約6−8時間後の未来にあなたを連れていってくれます。

11)現在、過去と未来
過去は私たちの記憶の中にしか無い。ちょっと御幣があるかも知れないが、記録の中にも存在しない。記録しても記録がどこにあるかが、誰かの頭の中にあるか、誰かが探し出して初めて過去のあったことが分かる。意識が記録や、記憶を認識して過去が生まれる。
たとえば、遺跡や、偉人の出筆した文献は地下や、蔵の中にあってもその時代があったことや、その文献が有ったことは解らない。現在の世の中で「発見」されて始めてその時代が存在し、その文献が存在したことがわかる。でもある意味「発見」される前からその時代も、文献も存在していた。でも発見される前の存在はどんな意味を持つのだろう。発見される前の存在は存在しないに等しくは無いだろうか。だから私達は存在していた時代も「発見」するのだ。
ただただ現象が存在する。それが今、現在だ。
変化のある事象の刹那(せつな)の連続、それが時間なのだ。

地球が一周するから一日経つ。時間が経って一日過ぎて地球が一周するのではない。数えるから時間が経つという大前提がまずある。(経時)その上で齢を重ねて年を取るから時間が経つ。(加齢)
私達は、地球がほぼ同じ周期で自転していることを知っている。セシウム(?原子時計はセシウムだったと思う)の原子の振動と、地球の自転ではセシウムのほうがより正確な周期の定時性があると決めただけである。真理でもなんでもない。決め事にしか過ぎない。そうすることにより多くのもののつじつまが合うのだ。
多分生活上は(そして多分これが最も重要)遠い未来、地球の自転が遅くなっても一日が24時間だ。セシウムの振動とずれて24時間と1時間18分36秒ということにはならない。1秒の定義を変えることのほうが遥かに合理的だと思う。

☆意識が単なる存在を時間の中の存在にする
このように考えると、私達は時間の中にいるのではない。
私達は存在(=意識の存在、唯心論的過ぎるかな)以外のなにものでもない。
ただただ存在しているのみだ。
私達の記憶に時間という名前をつけているだけに過ぎない。こいう考えに沿って観ると時間は存在しない。ただ意識と、それが感知するもの(物とか感性)の存在のみが存在するだけということにならないだろうか。
そして運動や現象を類推し、記憶から起こることを類推し未来と名前をつける。

ただし、感性はエントロピーとともに存在するから、感性が時間の呪縛から解き放たれることはない。そういう意味で、時間は絶対存在だ。


12)事象元と物質元
次元のところで、この世界には一次元も二次元も、また四次元以降も存在しない。有るのは三次元という今私達がいる世界だけだと述べた。しかし私は事象元と、物質元と言うような見方ができる次元が有るのではないかと考えている。それはひょっとすると、時間と、空間のことかもしれない。とりあえず述べさせていただく。
運動は事象元にあり、物質は物質元にある。音楽は事象元にあり、音楽用CDは物質元にある。感性自体は事象の権化(「ごんげ」です)、事象連鎖の頂点であり、勿論事象元に有る。事象元にある音楽を物質元の何かの物質上に、再生(=再び事象元に取り出す)できるように情報を留めることを記録と言う。すべての情報は事象元で解読(意味のあるものになると言うこと)されるが、記録される場合は必ず何らかの物質が必要である。そして記録されることにより時間を超越する。つまり、事象元=時間の中漂っている、移ろう情報を時間から開放し、固定化する。この時間を超越すると言う特徴こそが記録の本質である。記録された情報は時間経過に耐えて未来にとどく。
それはまるで、事象元に漂うエネルギーを、物質へと固定化(トラップ)する様とまるでそっくりではないか。1章で書いた物質の誕生の空想と一致していると思うがどうなんだろう。

物質なしではどんな情報も記録されない。われわれの脳が物質であることは疑う余地も無い。紙も物質である。インクだって鉛と、炭素の鉛筆の芯も物質である。ハードディスクも、磁気を記録するものもしかり、このようにありとあらゆる媒体は物質である。
勿論、まさに音楽そのものや、情報をもった目に入る光は物質ではない。その情報の意味が解釈される場合、その情報は事象であり、事象元にある。それは書きとめたり、記憶したり、録音しなければ移ろい消え去る。

事象と時間
事象があり、また別の事象がある。その2つの事象の隔たり(間)を事象距離=時間という。距離が近い順にA地点、B地点、C地点と言うように事象も自分のいる事象(意味不明ですな、自分が存在すると言う事象かな)に近い順という順番が有る。そして事象がすべて可逆事象、順番を逆にして事象が自然に進んでいくと言うことが起こるなら、事象の順番を逆回転できる。この世界が周数時間の世界である。事象と言えるかわからないが私達の周りには周期運動しかこの手の事象は存在していない。
この説明かなり違うかな。この項はいつかまたゆっくりと述べたい。

存在の認識もまた事象である。事象を通して存在を認識する。

13)まとめ
いろいろ時間について述べてきた。まとめに移ろう。
物理的な整合性の単位として、周数時間は存在する。そして多分私が述べたような加齢時間と周数時間のずれはない。橋渡しは宇宙のどこでも成立する。つまり宇宙には背景となるような周数時間があるかも知れない。これは相対性理論の時間の遅れとかと関連するものではない。遠望(距離だけなく、観察者と被観察物との速さもけた違いに遠い)を観察するものではないのだから。遠望を観察しなければ相対性理論は持ち出す必要が無い。そしてその周数時間は変化をもたらすものではない。何も変化が無くとも、事象が全く無くても経っていく時である。
しかし私達が時間というときそれは「覆水盆に帰らず」のことわざが示すように歴史の中の時間である事が多い。そもそも私達の生が加齢時間の存在である。この加齢時間は宇宙にあまねく存在し、宇宙の齢(よわい)を推し進めるものではない。それは宇宙の中の局所的な存在であり、質量をもエネルギーに換算したときの近傍のエネルギー密度に大きく依存する。化学変化が濃度によって速さが変わるように、エネルギー密度が高いところほど、加齢時間は速くすぎる。確かに加齢時間も熱鉄球のような定義をすれば、周数時間と全く一致するだろう。しかし、こちらは多分原子の崩壊の半減期のような、考え方をするのがより本質を突いていると思う。より本質を突いているとはそう考えることがより私達の生活に有益、なじみやすいと言うことである。200度の熱鉄球が半分の温度になるまでと、100度の熱鉄球が半分になる時間はおのずと違う。周数時間では明らかに違うが、この高エネルギー密度の中にいる高等生物は半減期をもってして時間の感性を作るというようになっていないだろうか。その時間の感性は速かろうが、遅かろうが近傍のエネルギー密度によって形作られる。何はともあれ、密度が高いほうが速く変化をする。そこでの高等生命の時間の感性はこの際問わないことにしよう。
そうして宇宙には年齢は存在しない。勿論宇宙はビッグバンなどによって始まったものではない。
またある意味で過去も存在しない。あるのは事象元の生成流転の営みだけである。当たり前のことだが、「今」しか実在しない。記録や記憶を、意識が呼び起こして過去を作る。残念ながら、タイムマシンは絵空事の世界である。
過去は記録や、足跡や、記憶の中にある、現実の作用が及ばない事象である。作用が及ばないから過去は見ることも、触ることもできない。勿論タイムスリップなどしない。
11項で述べたように、現在、過去、未来も人間の感性が作り出した時間の捕らえ方である。あるのは単なる存在と、その存在同士の干渉、つまり事象に過ぎない。その事象の連鎖の頂点に感性がある。矛盾しているか?


14)空間と、揺らぎは超存在である。
存在するものは空間と、エネルギーの揺らぎだけである。エネルギーが揺らぐ無限の容器だけが存在すると言ってもよいかもしれない。エネルギーの揺らぎが物質と時間を作る。
時間と、空間は明らかに質の違う感性である。直感的な視覚に訴える、空間の感性に対し、時間は心の中だけで感じるものに、周期運動の数えを当てたものである。さらに揺らぎが時間の感性に実質的な意味−加齢を与える。

15)絶対時間−時間の架け橋
 この項は一番最後に付け加えた最新のものです。
 時間についてはいろいろ考えて、考えあぐねて周数時間と加齢時間の考え方に行き着いた。その周数時間と加齢時間を関係付ける橋渡しが無い、つまり時間の本質的(絶対的)な存在である加齢時間と、宇宙にあまねく存在する周数時間の関係がない。だから宇宙には背景時間は無いのでは考えるようになった。
 昨年、図書館の本を紐解いて見ているうちに時間は私が今までの項で述べているような存在ではなく、また今の科学が定義しているような存在でもないのではないと考えるようになった。周数時間と加齢時間の架け橋を見つけたと考えているからである。きしくも一番否定したがっている宇宙の背景時間という存在である。ひょっとすると宇宙には万全として流れる時間、背景時間が存在するかもしれない。
 電磁気学の発展の本で、ファラディーかその少し前の科学者が電線に電気を流すとその流し始め流し終わりで近くの磁針が振れることを発見するところを読んだ。そしてファラディーの法則が生まれる。運動が起電力(運動エネルギーと電気エネルギーの変換)と結びついているのである。なんと、周数時間は周期運動の周期を数えることで計ることができるがその周期の数を運動エネルギーに結びつけることができるのである。そうなると時間は周期運動の周期を数えて定義する(セシウム原始の振動)のではなく、周期運動の周期が、負荷いくらか、巻きすうや、形状、大きさなどいくらかを定義した起電機(発電機)の起電力が1Vになる回転数の間覚(時間)を1秒にすると言う定義になるはずである。いいかえれば「時間原器発電機を絶対温度280℃で、起電力1Vになるように回してその回転数の2回の間を1秒とする。」というような定義になるはずである。もっとも回転数が一定ということを時間の概念なしで説明しなければならないところを工夫(たくさんの起電機で平均を取るとか)しなければならないが。安定して継続した1Vの起電力を得るという定義でもいい様に思う。
 時間はここでは独立物理素量ではない。起電機のロータの回転を数える回転数、形状(形状はなんと言う素量になるのだろう。)、大きさという長さ、コイルの太さという空間の距離(=長さ)、巻きすうという数え、などの従属物理素量になる。つまりほかの物理素量と結びついた単位ということにならないだろうか。これが周数時間と加齢時間の架け橋であり、絶対的な宇宙の背景時間となる。
 この考えでもう一度すべての科学法則や、理論を作り直してみると面白いものができてきたり、発見できそうな気がする。やっていただける人がいればお手伝いします。
 おそらく、時間の単位の定義は時間原器発電機でも、セシウム原始の振動でも計っていることは同じだと思う。セシウムの原子の振動が起こるメカニズムは電磁気学的かどうかは分からないが、どこかのエネルギーがつりあって起こっていることだろう。ただ、時間素量が従属素量であるということを明らかにして、明確に定義するのと、漫然と定義するのではその後のものの捉え方が変わらないだろうか。

 さてと−時間の定義
 時間は事象と事象の間の覚えとして、それを時間という概念として存在する。これを否定できない。視覚に訴える空間の間の覚えと同様に別の器官に訴えるわけではないが、脳に直接訴える事象と事象の間の覚えである。この間の覚えを時間という。この時間が経ち、現在、過去、未来を形作るという現象が私たちの近傍だけで起こっているのではないかというのが私の主張である。時間の存在、事象間の感性は否定できない。感性としての時間は厳然として存在する。
 したがって 「時間原器発電機を絶対温度280℃で、起電力が一定して1Vになるように回してその回転数の2回の間を1秒とする。」というように定義し、かく定義に「一定」という時間の概念を持つ言葉を使用してもいいのではないだろうか。時間の感性なしには時間の単位を定義できなかった。